世界卓球選手権」(大阪)と中村精吾さん

                 =続・追悼記=     大村 義和

 

 2008年の「北京五輪」卓球競技に当然、中国が完全制覇を期している。全世界に21世紀の
全ゆる分野で注目高い中国人民のパワーを金メダル・ラッシュで見せつけるだろう。
CCTVや人民日報など数多いメディアも、すでに報道プロジェクト準備を進めていることだろう。 その中国と五輪開催を争って完敗の大阪市の2008年「五輪」招致イベントでもあった「第46回世界卓球選手権大阪大会」(2001年)から、もう3年半もの時が流れた。招致をかけた成果(IOC評価)まで心して、組織委員会の大阪市、大阪卓球協会、日本卓球協会の担当者たちと昼夜問わずの準備活動続けた当時の出来事はまだ昨日のようだ。1998年の「第14回アジア卓球選手権大阪大会」が前哨戦だったが、すでに「大阪世界選手権」を十二分に意識していた。私は「アジア選手権」開催前の約4年前からABC朝日放送TVの深夜番組の応援(企画構成)を、昼間はミズノ本社の広報宣伝のアドバイスもやっていた。元卓球記者でもありながら、仕事人として広告メディアとの付き合いもある。そのあたりを長年の仲間の中村精吾さんは知っていた。ある日、博報堂大阪支社で精吾さん(当時は共同通信大阪支社長)と早田 巖さん(当時は大阪卓球協会副会長)に出会った。ご両人は「アジア」組織委として協力依頼のために学連出身の村山 護さん(当時、新聞雑誌局長)を訪ねてきたのだ。そのあと精吾さんを通じて大阪市から広報報道担当を頼まれたが、正直なところ“先の見えないアジア選手権”が率直な印象だった。「そうやから大村さんに」と精吾さん。以来、早田さんと漫才コンビ?が始まるのだが、彼は卓球ぬきでは考えられない男の人生で自ら起ち上げた企業(株・宏栄)を成功させた実業家。「荻村さんにハッパを」で江口冨士枝さん(当時・大阪卓球協会長)を助けていた。早田さんはその後、地元大阪の大物、江崎勝久氏(江崎グリコ社長・神戸大卓球部OB)を江口さんのあとの大阪卓球協会長に担ぎ出したり、大阪市を助けて余りある。かたや私は「アジア」を五輪招致のイベントとして協力するはずの電通の担当者を呼び出したが、アテにならずで、さらにNHK放映のはずと聞いていたのに・・・で結局、長年の親交を生かしてABC朝日放送に協力願うところとなった。ラジオ人気番組やTVワイドで告知放送。そしてABC朝日のキー局、テレビ朝日のニュースステーション(久米キャスター)でも。また執ようなまでに通ったNHK大阪でもサタデースポーツで取り上げてくれ、「先の見えないアジア」は大会直前の“テポドン”効果(北朝鮮)もあってメディア効果上々となった。「アジア」の期間中、北京五輪招致の副会長でもあった徐寅生ITTF会長(当時)が「テニスをやりたい」と言い出して南港の舞州でお相手した。テニスもカットマンの徐会長はボールを切りまくる。毎週テニス通いのこちらも負けるわけにいかない。お互いにネバーギブアップで熱戦。「もし、大阪に五輪決まれば、この南港ベイエリアが開催場所です」と告げた一言でヒートしたのかも知れない。

 今、振り返れば「アジア」運営経験と「第45回世界卓球選手権」個人戦(オランダ)団体戦(マレーシア)の調査遠征参加も、「世界選手権大阪」のために大いに役立った。つねに頭の中に“中国メディア対策”があった。この点は精吾さんも同感だった。「共同は日本初参加の第19回大会(52年、ボンベイ)から世界選手権の全てを取材、報道してきた役割、使命」が時々、口に出た。忘れもしない。「世界卓球大阪」の録画TV放送アナがITTF派遣者の間違った過去の団体対戦成績(英文)を読んでしまった。放送時間は深夜だったが、精吾さんは聴き逃さなかった。即、真夜中、私に電話をかけてきた。「スポーツ競技に記録は命だ!」私の抗議の声は、精吾さんの記者魂の声でもあった。

                   (世界卓球選手権大阪大会メディア委員長)

 「卓球人」第21号(200411月末発行予定)掲載原稿です。

                            以上