OB・OGレポート


「関学 栄光の歴史」

卓球界で「関学」といえば、少なくとも30年前までは知らない人がない知名度を誇っていた。しかし今は、かつての名選手の訃報に接した時や、卓球の歴史が語られる場合に接する程度で、3月ドーハでの世界選手権大会団体戦を始め「現在の檜舞台」に登場することはなく、まことにさびしい限りである。だがかつては、日本の卓球を長年にわたって育て上げてきた一方の立役者だったのである。そう、スポーツの発展、強化には「東西の拮抗」が欠かせない、といわれたころまではー。
 
 日本に卓球が伝わって間もない明治41(1908)年、当時神戸にあった関西学院普通部の寄宿舎に卓球台が置かれ「ピンポン始まる」と、記録に残っている。“卓球伝来”6年後のことである。その後ピンポンは関西一円に広がり、大正7(1918)年には「関学の卓球」が初めて新聞紙面に掲載される。2月7日付朝日に「関学高等部が神戸永井商店に9−5で勝つ」と伝えられたのを手始めに、6月までの朝日、毎日両紙に計4度。あとは大正15年設立した関西学生リーグ戦にいきなり優勝し、その後も東の早大と並ぶ東西の双璧として全国をリード、「早関定期戦」を結んで卓球界発展に貢献した。

 
 日本が世界レベルでの公式国際試合に初めて参加したのは昭和13(1938)年1月、当時の世界NO1ハンガリーからサバドス、ケレン両選手を招聘して開かれた「日供国際卓球」である。この公式第1戦で、関学の渡辺重五は、早大の今孝と2人でサバドス、ケレンから2点ずつを奪い完勝。同第2戦では2人のダブルスもサバドス・ケレン組に勝ち、世界の強豪を単、複とも打ち砕く殊勲の星を挙げた。渡辺は全日本選手権で11年(軟式)12年(硬式)と2連覇した第1人者。今は11年から学生選手権2連覇中(その後5連覇した)で上り坂にあり、まさに日本を代表する両輪だった。

 
 2度目の公式国際試合は15年6月の「汎太平洋大会」。アメリカ、オーストラリアから招いて団体戦と個人戦を開催し、団体戦で優勝した日本は、個人戦で関学新人の崔根恒が準決勝から林忠明、今孝を連破して優勝した。渡辺、崔両選手は、世界選手権大会にもし日本が参加している時代だったら、今と並んで主力選手だったろうし、そのことは戦後全日本に5度優勝した鉄人藤井則和にも当てはまる。17年関学入り、22年復学した藤井は、日本が世界選手権に初参加した27(1952)年2月のボンベイ(現ムンバイ)大会に臨んだものの悪条件下の不運に見舞われ、汎太平洋大会で崔に敗れた林との個人戦ダブルスに優勝しただけの不振。同年夏バーグマンに誘われ日本のプロ卓球第1号選手として世界を行脚した。そしてこのプロ問題も、現在のアマチュア規定なら何ら障害にならないことで、いずれにせよ活躍の時期が余りにも早すぎたというほかあるまい。

 


 藤井のあと世界選手権にはひとりも代表を送り込めなかった関学も、国内では30年代まで揺るぎない立場を維持し続け、岡本広郎、松原正和、川瀬浩、相川雄二と相次いで世界代表候補を輩出。日中交歓大会の代表や中国遠征に加わり卓球界に貢献する傍ら、40年代前半までは関西・西日本では孤高を守り“打倒関東”に切磋琢磨してきた。一方、役員活動面でも、戦前の黄金期に崔とのペアで全日本・同学生のダブルスを何度も手中にした西山恵之助が33(1958)年から関西学生連盟副会長、44(1969)年から平成元(1989)元年までは会長として参画。30余年の正副会長在任中、後半の20年間は日本学生連盟副会長の任にあった。このほか日本協会理事に磯岡新、尼崎勝己、戸口田勝幸。大阪協会長に小山藤兵衛、関西学連理事長に岡和三郎ら多数を数える。 

 
 余談として先述の崔は戦後、韓国卓球協会役員を務め昭和31(1956)年東京で開かれた第23回世界選手権の韓国監督で来日するなど世界の舞台で活躍。関学時代中村姓でレギュラーだった鄭吉和は、北朝鮮に渡って61年北京の世界選手権に出場したのを始め長い選手生活を過ごし、後年はヘッドコーチ、役員で何度か訪日した。            

                                
                               37年卒、中村精吾(関学卓球部OB会副会長)