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日中交歓大会


周恩来首相を囲んで(第1回日中交歓大会 於:北京 1962年 昭和37年)

 日中交歓大会は第26回世界卓球選手権北京大会(昭和36年)終了後、日本チームが中国各地を転戦したのがきっかけ。翌年から毎年のように交互に遠征を続け、日中国交回復(昭和47年)以降は友好都市レベルの交流にまで広がった。昭和46年の世界選手権名古屋大会による”ピンポン外交”を契機として日中友好ムードはおおいに高まったが、我が関学の現役、OBが交歓大会の日本代表選手に選ばれたのは初期段階に限られ、その後は文字通り”友好第一”のムードのなかでの参加、貢献にとどまった。
 関学関係者が参加した大会を振り返る。

第一回日中交歓大会中国シリーズ(昭和37年6月~7月)

松原正和が参加、メンバーは他に男子 木村、三木、瀬川 女子は松崎、関、吉田、中川。
 北京、天津、上海、広東で7戦し男子3勝4敗、女子6勝1敗。他にエキシビジョン2戦と個人戦。

松原正和の戦績
 第1戦 1 (21-19,19-21,8-21) 2 張燮林 / 0 (13-21,20-22) 2 荘則棟
 第4戦 0 (19-21,15-21) 2 徐寅生 / 0 (15-21,9-21) 2 荘則棟
 第6戦 1 (12-21,21-11,19-21) 徐寅生 / 1 (17-21,22-20,16-21) 2 楊端華
 第7戦 0 (カウント不詳) 2 卓林 / 2 (カウント不詳) 0 文挺
 個人戦(天津) 0 (6-21,18-21) 2 郭仲恭
 非公式戦(上海) 2(21-5,21-16) 0 何適釣 / 2 (21-14,15-21,21-18) 1 屠漢剛



       右から3人目が松原正和


元世界チャンピオンの荘則棟と対戦する松原正和(向こう側)

日中親善大会日本シリーズ(昭和37年11月)

松原正和が参加、国内で始めての日中交歓大会。公式戦は名古屋、東京、大阪で3戦、非公式戦を東京、徳島、横浜で3戦。
公式戦は男子1勝2敗、女子2勝1敗、非公式戦は男子3敗、女子2勝1敗
松原は徳島の非公式戦に出場。

0(16-21、12-21)2 李 富栄

第2回日中交歓大会中国シリーズ(昭和39年10月~11月)

川瀬浩が参加。荻村(監督)、木村、小中、野平、女子は関、山中、深津ら。
5月に中国を迎えた第2回日本シリーズに川瀬は選出されなかったが、このメンバーに入り北京国際招待大会後に各地を転戦(北京、上海、広東)公式戦は男子1勝3敗、女子4勝。川瀬浩の記録は非公式戦2試合を含め王志良、廖文挺に勝つなど、12戦6勝6敗と5分の星を残す健闘ぶりだった。

川瀬浩の戦績

北京 2(16-21、21-8、21-15)1 王志良/2(21-15、21-16)0 余永年
   1(21-15、16-12、13-21)2 徐寅生/2(21-17、17-21、21-11)1 子貽澤
   2(21-15、21-16)0 廖文挺/0(14-21、19-21)2 王家声

上海 1(21-15、21-23、13-21)2 周/1(14-21、21-18、16-21)2 余長春
   2(21-10、21-15)0 掲湛盛/0(10-21、9-21)2 区

広東 2(16-21、21-19、23-21)1 呉生明/1(19-21、21-16、15-21)2 胡道本

   
 万里の長城 左・荻村監督 右・川瀬浩      天安門広場 左・川瀬浩 右・長谷川氏

川瀬浩の「遠征の感想文」が日刊スポーツに掲載されたものを紹介する。

 10月17日市民の熱狂的な大歓迎のうちに北京入りしました。
 北京空港でまず感じたことは、予想以上に寒く日本の12月初めの気候でした。
 だが大陸性気候のため、湿気が少なくカラッとした気持ちの良い毎日でした。
 北京の町は私が思っていたよりも華やかでなく、町を歩いていてもネオンなど目に付きません。道行く人の服装も質素で、殆どが青か黒の作業着のようなもの。店の飾りも古風で、車といえば自転車が殆どです。
 さて、試合に対する市民の関心は大変なもので、連日1万数千人のファンが押しかけました。翌日発売される切符を、その前日から列を作って待ち受ける人もかなりおり、いつも満員。切符が手に入らなかったファンは、テレビで我慢しているようです。
 実況放送はテレビ、ラジオとも放送され、卓球が国技として非常に重要視されているのが良く判ります。”卓球が国技”ということは、学校でも卓球を正課の授業として行っていることでも明らかで、生徒たちのカバンの中には、本と一緒にラケットも必ず入っています。
 試合会場の北京労働者体育館は、卓球のために建設されたもので、その大きさは日本では想像も付きません。会場には周恩来首相を始め、政界の中心人物が必ず観戦されました。
 周恩来首相は毎日何分かは健康のために卓球をされるそうです。国民全体の卓球に対する関心も非常なもので、子供のころからラケットを握っているのです。こうした環境の中で育つのだから、選手層も厚く、二、三人のトップレベルの選手を除いてもそれに続く実力のある選手が多くいて本当に驚かされました。しかも同じようなタイプなのに、一人一人が個性を持っています。実際にプレーしてみると一球一球に変化をつけて返球するのでかたときも気が抜けずやり難い相手です。
 第2戦で王志良と寥文挺と当たりましたが幸いどちらにも僕が勝ちました。王志良は日本も二度来ているおなじみの選手で、中国のトップクラスです。僕の変化サーブはかなり効果があったので、自身を得たのが何よりの収穫です。
                                       (39/11/5 日刊スポーツより)
                           ※39年当時の中国遠征した者の中国観が良く判るだろう。

第3回日中交歓大会日本シリーズ(昭和41年5月)

相川雄二(OB)が参加。公式戦は東京、大阪、名古屋で行い、男女とも1勝2敗。相川雄二は寄居と東京での非公式戦に出場(他に広島、京都を含めた非公式戦は男子1勝3敗、女子4勝)

非公式戦(寄居)0(14-21、20-22)2 何祖斌
        0(5-21、18-21)2 蘇国熙
    (東京)1(21-11、15-21、13-21)2 蘇国熙

第3回日中交歓大会中国シリーズ(昭和41年8月~9月)

相川雄二(OB)が参加。北京、上海、広東で5戦し男子3勝2敗、女子1勝4敗(相川雄二の記録は不詳)。日中交歓大会前に北京国際招待大会が行われた。

北京国際招待大会

相川雄二は団体決勝リーグ中国戦に出場。
個人戦シングルスは4回戦まで進みベスト16入りした。

団体戦 0(14-21、20-22)2 李富栄

個人戦 2回戦 3(21-6、21-8、21-7)0 シェラフ(イエメン)
    3回戦 3(21-6、21-7、21-7)0 カザル(シリア)
    4回戦 0(17-21、14-21、7-21)3 李富栄

(日中交歓大会へ日本代表選手として参加したのは以上3選手で終わっている)

日本ジュニア選手団訪中(昭和46年8月~9月)

中村精吾(OB)が同行記者として参加。文化大革命後、各分野を通じて初めての訪中。北京、上海、長沙、広州を転戦。男女とも6戦全勝

日中友好都市交流大会(昭和56年10月)

小山藤兵衛(OB)が池田市訪中団団長として参加
(同時期に国内各地で日中交歓大会が開催されていた)

日中友好都市交歓関西大会(昭和56年10月)

向山茂(OB)吉野真由美(OG)小山藤兵衛(OB=大会実行委員長)が参加

日中国交回復10周年記念で友好都市提携を結んでいる大阪府・大阪市(上海)、池田市(蘇州)、奈良市・京都市(西安)、神戸市(天津)、明石市(無鍚)が各地で迎えた。(全8試合)

池田大会 対蘇州戦(公式戦)で向山茂が勝つ

向山 1-2 王継建

日中友好都市交歓大会(昭和60年8月~9月)

堀内敏弘、古市吉幸、高山雅人、鯛中昌洋、三宅聡(いずれもOB)が参加

大阪府・上海市友好提携5周年記念「大阪シリーズ」として開催、池田市代表で上記5名が選出。上海市が男子3章分け、女子4勝。池田氏は1-6で敗れる。

堀内 1(7-21、21-17、18-21)2 劉湧江
鯛中 0(17-21、16-21)2 周平
三宅 0(9-21、11-21)2 楊敏
古市 0(9-21、17-21)2 朱小勇
鯛中・高山 0(7-21、10-21)2 劉湧江・楊敏
堀内・(小山) 1(17-21、21-15、21-12)2 周平・朱小勇
( )は学外者

日中友好都市交歓大会(昭和60年11月)

堀内敏弘(OB)小山藤兵衛(OB・団長)が参加

大阪府・上海氏友好提携5周年記念の「中国シリーズ」大阪訪中団として上海、蘇州、無鍚を転戦。男子2勝1敗、女子とベテランは1勝2敗。(堀内敏弘の戦績不詳)